康熙字典解説
康熙字典の原典を見る(第 832 ページ)
【午集下】【石部】碑;康煕筆画:13;頁碼:832 頁第 10 行。『広韻』彼為切、『集韻』『韻会』班麋切、『正韻』逋眉切、音は陂に同じ。『説文』に「石を立てたるなり」とある。『礼記・祭義』に「君牲を牽り、既に廟門に入りて、碑に麗す」とあり。疏に曰く、「君主は祭祀に用いる牲畜を牽き、廟門に入ると、これを庭中の碑に繋ぐ」。その用い方は、『公食大夫礼』において各種の美味なる肴は碑の内側に陳じ、庭中に陳ずる礼物は碑の外側にある。また『燕礼』『聘礼』ともに「賓は碑の内側にて命を待つ」という。さらに『士昏礼』では賓が廟門に入り、『郷飲酒礼』では賓が学校の門に入り、『郷射礼』では賓が学堂の門に入る際、いずれも碑に正対して揖する礼があり、これにより諸侯・大夫・士の宮室にはみな碑があったことが知られる。鄭玄は言う、「宮室には必ず碑を設け、日影を観て陰陽を弁ずるためなり」。凡そ碑をもって物を牽引するものは、宗廟においては牲畜を繋ぎ、毛と血を取るために用いる。その材質は、宮廟では石を用い、埋葬の際は木を用いる。また『檀弓』に「公室は豊碑に視る」とあり。注に曰く、「豊碑とは大木を削って石碑のごとき形とし、棺槨の前後四隅に立て、中に孔を穿ち滑車を設け、埋葬時に縄を滑車に巻いて棺を下ろすものなり」。また『釈名』に「碑とは被の意味なり。もと王莽の時に設置され、轆轤を取り付け、縄を上より覆わせて棺を牽引す。臣子が君または父の功業・美徳を追述し、その文字を上に刻む。後世この法に倣い、故なく道の尽头・顕著の地に建て、上の文字を成すを碑という」とある。また徐鉉曰く、「古え宗廟に碑を立てたるは、ただ牲畜を繋ぐのみなり。後人これに功徳を記録す」。また劉熙は言う、「埋葬時に設ける碑は、およそ今の神道碑なるべし」。また『初学記』に「碑は往事を悲悼するものなり。今宮室・廟宇・房屋・墓道の傍らにある石碣にして、上に文字を刻むものを皆碑という」とある。