【子集上】【人部】来;康煕筆画:8;頁碼:101 頁 16 行
古文は「徕」と作る。
『広韻』に落哀切、『集韻』『韻会』『正韻』に郎才切とあり、頼の平声に読む。
意味は、至る・帰る・及ぶなり。
『礼記・曲礼』に曰く、礼は往復を尚ぶ。往きて来ずは礼に非ず、来きて往かずもまた礼に非ず、と。
また『公羊伝・隠公五年』に、魯の隠公、棠において魚を観るは、これ「登来」の故なり、と記す。【注】「登」は「得」に読み、斉の方言にて「求め得る」を「登来」という。
また玄孫の子を来孫という。
また麦の名なり。『詩経・周頌』に曰く、我に来及び牟(麦種)を賜えり、と。『漢書・劉向伝』には「饴我厘麰」と作る。また「

」とも作る。
また呼ぶを指す。『周礼・春官』に、大祝、瞽朦を召して舞を命ず、と記す。
また姓なり。
また『集韻』に洛代切とあり、「赉」に読む。その来たるを安んずるを「来」という。『孟子』に、放勲(堯)曰く、これを労し、これを来らしむ、と記す。
また葉音は隣奚切にして「離」に読む。『詩経・邶風』に曰く、往く勿れ、来る勿れ、我が心憂えて思えり、と。『素問』に曰く、心恬淡虚無なれば、真気これに従いて来たる。精神内に守らば、病い何より来らんや、と。
また葉音は郎狄切にして「力」に読む。『詩経・小雅』に曰く、東方の諸侯の人々、専ら労苦に任ずれども慰労を得ず、と。下の句の「服」の字と葉韻す。『大雅』に曰く、始め図るに急ぐ勿れ、民は子の如く自ら来たる、と。
また葉音は落蓋切にして「頼」に読む。屈原『離騒』に曰く、雲気の変化に乗じて飄然として上挙し、忽然として神奔鬼怪の如く迅疾なり。時隠時現して遠く望むが若く、霊魂明らかに往来穿梭す、と。
また葉音は良置切にして「利」に読む。『荀子・賦篇』に曰く、一往一来、糸端を結びて事と為す、と。
考証:『荀子・賦論篇』に一往一来、尾を結んで事と為す、とある。謹んで原書に照らし「論」の字を省く。